「私、バックパッカーでしたが、なにか?~90年代女パッカーの戯言」2

連載第2回

「ゆるーいワーホリ生活が終わり、なんとなくバックパッカーになっちゃう?!かも・・・」

はてさて、なんともこの企画、ぼちぼち1年間連載するってお気楽に書き始めたんだけど、2回目の締め切りが迫ってきてだんだんと心拍数が上がってきちゃいました。

まったくもって生まれつきの小心者の私は、前回の記事がなにやらたくさんの人に読まれて、面白かったよ、なんて言われちゃったものだから、これはもう大慌て。

だいたいにおいてね、期待なんてものをされるとすっかり自分がどこかに行っちゃって、あら、わたくし期待に応えなくちゃ、うふんっ!なーんて下心が働いちゃって何もかもがだめにしちゃうっていうのは、これだけ自分と長く付き合ってると分かってるんだ。

中学生時代、写生大会でなんちゃってって具合に賞をもらっちゃったもんだから、じゃあ、市に提出するためにこんなテーマで絵を描いてくれ給え山本君、なんて先生に言われて書いた絵がね、もうあまりにひどくてさぁ。先生もあんたいったいどうしちゃったのさ、って具合に絵を見て固まってるんだけど、さすがに私に正直に言えないっていうのがヒシヒシと伝わってきたねぇ。

あれは今でも切ない思い出のひとつだね。

 

あ、また前置きと言い訳が長くなったけど、前回読んでくれた人が、旅に出る前の20歳前後だけじゃなくって、予想外に同年代か90年代バックパッカーが多いみたいでね。

なので、もうひとつ言い訳してみると、私の体験してきたことっていうのはね、海外に出た人たちにしてみたら、もうごくごく当たり前の日常っていうことなんだ。しかもね、ロクデナシの方の日常ね。

前回の記事を読んで、若い人たちには、すごいっすね!憧れますぅ〜!なんて言ってもらえたんだけどさ、あなたも行ってみれば分かるよ、なにもかもが当たり前のことなんだよってね。すごいことなんて、これっぽっちもないんだよ。逆に言えば、全部がすごい!とも言えるんだけどね。

だって私みたいなバックパッカーで行くような普通の場所ではね、世界のどこにいっても、状況の違いはあるにせよ、人はご飯食べて、トイレ行って、子供作って、なんて具合に暮らしてるんだから。そんでもって私も、どこにいっても、同じようなことしてたんだもの。

でも、食べるものが違う、着る物が違う、言葉が違う、家が違う、そういうことひとつひとつを、見て感じられるっていうこと、それはすごいって言っても良いんじゃないかって思う。ググっても、知識は得られるけど、うわーって感じたりはしないものね。

 

そんなわけで、前回の続き〜。

さてワーホリでシドニーに行って、何してたかって言うとね、生活ですよ、セイカツ。

今思えばね、バックパッカーになる前に、海外で生活したっていうのは良かったな、って思ったりしてる。

ただただガイコクに行きたくて、なんとなくシドニーに行くことにして、そこで何するって目的もなくって。もう目も当てられない無計画ぶりで、将来のことなんて考えてみせてるようで、どうにもめちゃくちゃで繋がってなくて。でもね、それって、なかなか悪くないんじゃない?って私は思うんだ。

最近の若い子の話を聞くと、海外に行くにしても、旅に出るとしても、そこから得られるもは何があるの?とか、就活に不利になるから留学はやめる、なんて頭であれこれ考えちゃってさ、行きたいって思ってる気持ちを無理矢理押し込めてるって気がして、なんだか気の毒だなぁって。

別に興味のないのに無理に行きなよ、なんて言わないけどさ、行きたいのに行かないってのは、若者としてどうかなって思っちゃうね。今なんか円高で、旅をするには絶好のチャンスじゃん!ってね。

まあ、こんなこと言っておいて、就活の責任なんて全然取れない私が言うんだから、ちょっと申し訳ないんだけど。

 

でもね、行ってみて良かったなって思うことのひとつにね、どこに行っても自分は自分って分かるって言うか、ね。あとはね、日本で暮らすってことが、いかに狭い価値観の中で生きてるかっていうことをヒシヒシと感じるってことかな。

別にそれが悪いって言ってるんじゃないよ。でも、私みたいなロクデナシには、それが救いのひとつだったんだ。だって、ま、こんなんでも生きていられればいいじゃん、って思えたんだからさ。

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生活ってね、こんな具合に、楽しい日々を過ごしてたワケ。↑

 

お仕事は日本人が経営する寿司屋の売り子を帰国直前までずっとやってたなぁ。

当時はインターネットって無かったから、シドニーにあるワーホリ事務所へ行って、仕事募集の貼り紙を見て応募したんだよね。

あの時、ヨットで世界をまわった夫婦がシドニーでスタートして軌道に乗っていた寿司屋を、とある日本の企業が目を付けてブランドを借りてシドニータワーの中にお店をオープンするっていうタイミングでね。面接は確か23日かけてやってた記憶があるけど、もうそれこそたくさんのワーホリの人が来てたね。

 

でもでもそんなんで、どうして私が採用されたかっていうのが疑問なんだよ。だって、おかしいでしょ。すごーくたくさんの人が面接に来てたのに、そこからは正式に2人しか売り子として採用されなかったんだよ。

ひとつ思い当たるのは、面接中に携帯電話が鳴ったこと。

日本でもようやく携帯が少しずつ普及してたころだったんだけど、この時私は一丁前にノキアのトランシーバーみたいなでかいヤツをレンタルして持ってたんだ。それが面接中に鳴っちゃってね。そうそう、あの、ノキアの着メロだよ。ピロリーロ・ピロリーロ・ピロリーロ−ロー♪

もちろん携帯のマナーとか、面接のマナーとか、そんな気の利いた知識なんて私はなんにももって無いから、すみませんって電話に出てね。それが、少し前に面接に行っていたお土産屋からの断りの電話だったんだけど、実は何を言っているのかあんまりわからなくて。でもなんとなく、ああ、ダメなんだってことは分かったから、適当に、英語で、オーケー、ノープロブレムってとりあえず答えて。

そうしたら、それをみていた面接の担当者が、どうやら私は英語がペラペラであるって思ったようで、フムフムっていう顔をしてるじゃないですか。そのあと質問で、いらっしゃいませってなんていうの?って聞かれて、May I help you? って答えたら、またフムフムっていう顔をしてね。もしや、これって好感触〜!とにかく、勘違いしてるんなら、ま、いいじゃない、って感じで、ぜひよろしくお願いします!って会場をあとにしたのでありました。

面接は後日も続く予定だったんだけど、その日の夕方に電話がかかってきて、ぜひ働いてくださいって。あ、はい、って言うんで、私のワーホリ生活の基盤はここでできたんだ。本当に人生ってそんなもんだよね。仕事の断りの電話に出たらひろわれちゃったんだもの。

 

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そんな具合に寿司屋で働くことになったんだよね。なんか楽しかったなぁ。

当時、ワーホリのビザでは3ヶ月以上同一雇用主の元で働けないって規則があって、結局、シドニータワーは3ヶ月で卒業。でも、もともとの寿司屋のご夫婦に気に入ってもらえたみたいで、そちらの支店で働かせてもらえることになったんだよね。

 

そんな具合に、だいたいにおいて、いつもそうしてなんとなーく、巡ってくる運をつかんで生活をしていたワケですね

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これはキングスクロスにあった寿司屋の店から撮った写真↑

前回の記事にも書いたけど、キングスクロスは南半球最大の繁華街って言われてて、そんな街だからいろんなお客が来たよね。別に怖いことがあるわけじゃなくて、いろーんな人が世の中にいるんだってことを、ここにいる間に学んだなぁ。

 

ここではひとりでお店を任せてもらったりしてね。

朝、シャッターをガラガラ開けて、工場から運ばれてくる寿司を並べて売るっていう単純なことなんだけど、今思えばおもしろかったな。ラジオを聞きながら寿司を並べて、昼の忙しい時間になるまで一人で店番するんだよ。よく考えれば10代の時にガイコクでそんなことができたって、今思えばラッキーだよね。

 

あっちの人って、お店の人と一言二言話すんだよね。おはよう、元気?とか。

ああいうのが大好きだったな。

だからそのしばらく後になるんだけど、日本に帰ってきて、学生時代からバイトしてたコンビニでまたバイトさせてもらったとき、ぼーっとレジに立ってるところにお客さんがきて、Hi, how are you? なんて間違えて言っちゃったりして。

若くて小っ恥ずかしい私は、私ガイコクがしみこんでるって、バカだなぁと思いながらも、ちょっと嬉しかったりもしたな。あ、でもこの頃、そういうのが鼻につくっていって、友達から敬遠もされたよね。ま、確かに嫌なヤツだ。中途半端にガイコクかぶれになってさ。

 

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ちなみにこれが、私が暮らしてた街の近くの駅↑

静かな街だったな。スーパーで買い物をするときに、カートにあれこれ乗せて買うじゃない?ここでは、カートごと家に持ってかえって良かったんだよね。カートは家の前の道に放っておけば、店が回収するんだけど、すごいよねぇ。今でもそうなのかなぁ。

 

近所には小さい八百屋や肉屋とかもあってね。肉屋では、はじめハムが買えなくて苦労したんだよね。ハムって日本語の通り発音しても全然通じなくて。ヘアムみたいに言わなくちゃいけない。指をさせば買えるんだけど、悔しくって、家に帰って、ヘアム、ヘアム、って必死に練習したなぁ。

ま、そんな風にして、シドニーでゆるーい生活をしていたんだけど、ワーホリっていうのは1年でビザが切れるんですよね。手続きを取れば延長とかも可能なんだけど、その時はこのままの生活を続けていくんではダメなんじゃないか、と思ったりして。

現地で手に入る情報では、どうやったらシドニーに住み続けられるかとかそういうのも結構あっていろいろと調べたりもしたけど、結局どれもしっくり来なくて。アロマセラピーを学んで残るとか、そういうのね。

 

それで当時は多くのワーホリの人たちがやっていた、ストップオーバーがいっぱいの航空券を買って日本に帰国をするっていうのをすることにしてみたんだ。確か当時のオーストラリアドルで1500ドルくらいだったんじゃないかな。

シドニーから、オークランド、バリ、シンガポール、バンコク、香港、台北にストップオーバー出来て、最終的には名古屋へ、しかも1年オープン、日にち変更可能。途中、クアラルンプールも付けられたんだけど、なぜか私は、シンガポールからバンコクまでは陸路で行くんだっていうことに決めたようで、どうしてそういうことにしたのかちょっと覚えてないんだけど、とにかくそういうプランを作ったんだ。

多分単純に、陸路、歩いて国境を越える、という言葉の響きに何となく憧れたんじゃないかな。

 

航空券を買った時の私の心境は、あちこちの街を見て回りながら帰国をするんだよくらいのことだったんだと思う。ストップオーバーしてそれぞれの街で観光して、写真なんか撮ったりして、途中、シンガポールからバンコクまでは電車なんかで移動しちゃったりしてってね。

そんなワケで、ワーホリビザの切れる日と同時に、私は何事もよく分からずにシドニーを飛び出したのでありました。シドニーに行ったときと同じように、宿も決めず、プランも決めず。ちょっと違ったのは、オーストラリア英語の、特に寿司を売るには問題ないスキルが身についていたってこと。わさび付ける?とかね。

シドニーで二十歳、成人の日を迎えた私は、こんな具合にバックパッカーへの第一歩を踏み出すことになったのでした。

 

Japan Backpackers Link 2011年12月16日 12:18 PM
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