連載第1回

「とにかくガイコクに行ければ良かったワーホリ時代。バックパッカーになろうなんて思ってもなかったんだよ」

私、山本真梨子、愛知県豊橋市出身、2011年11月現在34歳、「女子」なんてもうとても恥ずかしくて言えないお年頃、東京・中野、ねことぐらし。

10代でいわゆるワーホリメーカーとして日本を飛び出し、その流れでなんとなくバックパッカーとして旅した国々はだいたい40カ国くらい。あ、でもね、ヨーロッパとかアジアとかの国境を越えるのなんて、東京から田舎に帰省するみたいなもんで、それこそあっという間だから、そんなにたいしたことじゃあないんですが、でもでも、世界のあちこちに友達いるんだぜ。いいでしょ〜!

と、自慢してみたものの、この頃はちょっと、働き盛りでお仕事も忙しいし、やっぱり日本経済支える歯車の目に見えないくらいのネジくらいにはなんなくちゃいけないし、なんて言いながらなんだかんだの東京人生に埋もれてしまい、旅にでるのは2年に1度くらい。もう「女子」とも「現役バックパッカー」とも呼べないし、でもこの社会において中年女性として立派なオトナであるかと言えば、ま、これが困ったものでして、元ハードバックパッカーとしての宿命、自分の人生は自分で開拓しなくちゃいけないのが、この愛すべき我が国における、ザ・ニッポン社会の現状。

そんな訳で、最近流行つつあるらしいカワイイバックパッカーになりたいわ、っていう本当に可愛い女子たちに、参考になるノウハウってのは、まったくございません。あらかじめご了承くださいね。

でも懐かしい青春のバックパッカー時代のことなら、語れますぜ。

青春っていうのは素晴らしく良いもので、やっぱり10代には10代の青春、20代には20代の青春っていうのがいつのどんな時代にもあるんだな、というのが、バックパッカーやりつつこの人生で学んだことのひとつでして。

だからこんな私でも、例えばインドで宿のオヤジが鍵を開けて夜這いをかけてきたらどうしたらいいのか?とか、そういうことなら経験談から伝授できるし、女ひとりで旅に出ようっていうんなら役に立つと思うんだよね。

 

でもそもそも、私って、どうしてバックパッカーになったんだろう?

 純粋で、気が弱くて、人見知りな私。バックパッカーなんて全然違う人種のすることじゃん。

 

実をいうと、なりたくてなったわけでもなく、なんとなくなっちゃった、っていうのが本当のところで、バックパッカーになるにはどうしたらいいか!なんていう話、正直、私、ドヤ顔して語れません〜。

 

 でもでも、きっかけみたいなのはあるんですよ。

 まずはさかのぼること、30年弱前。

早起きして観ていたテレビ番組は、「早見優のアメリカンキッズ」と「ズームイン朝」。アメリカンキッズでは、プーピーちゃんとガリソン君が早見優と英語で話すんですよ。ちなみにガリソン君はかなりイタイキャラで、納豆をトーストにのせたのなんかが好物で、子供ながらに変な奴っ!でも憎めないって心の中で悪態ついたりしてね。

ズームイン朝は、もちろん、「ウィッキーさん」! まちの人をところ構わずつかまえて、英語で話しかけるあれ。あれ、知らない人がいる? ま、今の時代、どこにでも外国人はいるし珍しくないから、今更どうでもいいんだけど、地方都市に住む幼き私にとっては、英語で話しをするウィッキーさんはすごく憧れだったんだ。

 私はこの二つの番組が大好きで毎朝熱心に観ていた。それでいつしか、海外に行くということが人生の目的の一つに組み込まれていくである。ガリソン君、ウィッキーさん、恐るべし。

 ここでまっとうな人生を歩むんならば、英語に憧れを持った若者は、勉学に励み、通訳になりたいとか、CAになりたいとか、そういう道もあったんだろう。でも残念ながらそういう人生は私には訪れなかったし考えもしなかった。私が学生時代に英語を活かした記憶があるのは、バンドで洋楽を歌っていたことくらい。そういう音楽の英語ならば、ノートにびっちり歌詞を書いて、発音なんかをまねたりするのは熱心だったんだけど、学校の英語の勉強となるとダメだったねぇ。

そんなわけで(ってどんな訳だよ!って感じだけど)、16歳の夏、ある出来事をきっかけに、進学校にいながら大学進学をやめると高校の担任に宣言して、海外に行く準備を始めたのでありました。え、親? あのときは私が何を考えてるのか何にも知らなかったんじゃないかな。ま、義務教育終わってるし、いいでしょ、くらいの感覚。今思えばただのロクデナシで、そんでもって今でもロクデナシは続いてるんだけど、完全放任主義の親が育てたんだからこんなものだよね。

 本当はね、はじめはアメリカに行きたかったんだぁ。田舎者だから、外国っていえばアメリカじゃん。

それでグレイハウンドの時刻表とか買ってきたりして、横断計画を夜な夜な練ってみたり、比較的授業料の安いコミュニティカレッジに入れる方法とか調べたりしたんだけど、ずいぶんたくさんのお金かかるんだよね。

 そんな時、本屋で目にとまったのがワーキングホリデーのガイドブック。これは衝撃でしたよ。だって、働けるんだよ、外国で。当時はカナダ、ニュージーランド、オーストラリアしかなくて、寒いのは嫌で、大きい方がいい、っていう理由でオーストラリアにしたんだよね。その頃、カンガルーとコアラくらいしか、オーストラリアの知識無かったんじゃないかな、私。

 ま、ガイコクに行けさえすれば、結局どこでも良かったんだ。

高校をかろうじて卒業して、それからバイトでお金を貯めて、ワーホリビザを申請。でもその年に限って、オーストラリア政府はビザをストップしちゃった。信じられないよ。しかも再開するのはいつか分からないっていいだして。それでしばらくビザを待つ羽目になったんだ。後で思えば、このときの待った時間は個人的に良かったということになったけど。

はい、前置きが長くなりましたが、それから無事にビザがとれて、1996年9月、シドニーに旅立ったのでありました。

 

初めての飛行機、初めての外国。

ソウル経由の大韓航空はガラガラで、飛行機ってあんまり人が乗ってなくて足伸ばして寝れるんだな、という認識が間違っていたということは後で気がつくのだけど。

 当時ほとんどのワーホリの人が、ひとまず英語学校とホームステイを決めてから来ていたんだけど、私はそういう基本的なこともすべてすっ飛ばして、とにかく行けばなんとかなるでしょ、ガイドブックだってあるし、と宿さえ決めずに旅立ち。

 さてガイドブックによると、シドニーについたら南半球一の繁華街である「キングスクロス」に行けば安い宿がいっぱいあるとのこと。繁華街はなんたるかも当時の純粋無垢な私は全く知らず、まず宿を求めてそのキングスクロス目指してバスに乗り込む。

 そして今でも忘れないあの屈辱の出来事が。

 空港からキングスクロスに行くバスを見つけて乗り込んだんだけど、どこで降りるか分かんない。外国のバスって、日本みたいに、「次はどこどこです〜」なんて親切に教えてくれない。景色をじっと眺めて、降りたい手前あたりでブザーを押すのが普通。

これは事前に情報として知っていたので、バスに乗り込むとまず運転手に、あらかじめ頭の中に準備していた英語のフレーズで意気揚々と、

I would like to get off at Kings Cross. Please tell me!」と伝えたんだけど、返してくれる英語がぜーんぜん分からない。何言ってるんだ、このおやじ?

とにかく仕方ないから、運転手のそばにぴったりくっついて、まだまだ?って聞き続ける。もうこの時は心臓バクバクだよ。バスに乗るだけであんなに緊張するなんて、本当にどうかしてるって思うけど、仕方ない。

 それにしても、それなりに簡単な英語はがんばって勉強したつもりでいたのに、なんで全く分からないんだろう。ガイドブックがあればなんとかなるなんて思って来ちゃったけど、ちょっとまずい雰囲気。

 そういうこうしてるうちキングスクロス近くに来て、運転手が話しかけて来たんだけどまた分からない。私が顔中をハテナマークでいっぱいにしていると、運転手はあきれ顔で、他の乗客に「She doesn’t understand English」って言ってるじゃありませんか。なんでそれだけ分かるのさ、私!悔しい〜。

 あとで分かったことは、オーストラリア人の英語は訛ってて、特にあのオヤジの英語は相当に訛ってたってこと。でも、そんなのは何のいいわけにもならない。だって世界を旅するっていうことは、そういう全部もひっくるめて対応しなくちゃなんないだから。

ま、そうして苦労して辿り着いたキングスクロスにて、そして人生初めての海外で泊まった宿がこれ。

確か1軒目は満室で断られて、ここを紹介されたんだっけ。 

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いわゆるバックパッカーの泊まる安宿。この時は女性専用のドミトリーって奴で、ルームメートが他にふたり。 

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ルームメートはとても優しくて、初めての外国でちょっとびびっている私と一緒にご飯を食べに行ってくれたりしてね。当時はインターネットがないから、基本的には一期一会の世界。今頃、彼女たちは何をしてるんだろう?

 そんな風に順調に思われたキングスクロスの安宿暮らし。でも残念なことに数日でそこを後にする出来事が。

 リビングスペースで出会ったニュージーランド人の男の子。確か大勢のバックパッカーがテレビでサッカー観戦してて、そんな中彼が話しかけてきた。少し話してると、ご飯でも食べに行かない?と。若い純粋な私は、ルームメートの女の子とご飯に行くのと同じ感覚で、何の疑問もなく、いいよって。

 それでご飯を食べて、確かバーみたいなトコにいって、全然覚えてないけど何かしら会話をして楽しかったのは覚えてる。それから宿に戻って屋上でお茶を飲んで。

 そうしたらさ、急に彼は真剣な顔で、キスしてもいいか?と聞いてくるじゃないですかぁ。ブチュっ!て、いいわけがないよぉ。何なんだ、この展開。ちょっと待ってよぉ、私は日本にボーイフレンドがいるし、そんなの無理だよ、ってつたない英語で拒否をするけど引き下がる気配がない。

 まだ当時は可愛げのあった幼き私はだんだんと怖じ気づいて、隙をついて逃げだし、走ってドミトリーに駆け込んでドアをガシャン、鍵をかける。彼はドアをドンドンと叩きはじめ、開けろ!と叫んでる。うわ、ちょっとどうしよう。マジで怖いんですけど。

とにかく静かになるまで部屋で縮こまって過ごし、ルームメートに事情を話して、次の早朝に宿をチェックアウト。

 今ならね、分かるんだけどね、そういうの。

でもあのときの私は、女の子が食事についていくとかいうことが、男の子に何を思わせるか、なんていうことを想像もしたことが無かったし、その時だってわけが分からず、その後も何度か同じようなことをやらかして、いろいろと学んだのでありました。

 でもそういうこともあるけど、やっぱり男も女もなく、ご飯を食べられる関係の方が世の中多いわけで、その辺のバランスっていうか、そういうのは旅でずいぶん学んだかな。って、最近の若い人はそのあたりは卓越してそうで、こんな話してると恥ずかしいんだけど。ま、とにかく、今ではあんまり心配する必要さえ無くなったからなぁ。

 あ、うわ、なんか自慢みたいだけどさ、日本人の女って、今でもそうだと思うんだけど、モテちゃうんだよ、海外で。私、結構あちこちで中国人と間違われるけど、日本人って言ったとたんに態度を変える男なんて五万といたからね。だから特におしゃれしてカワイイバックパッカーやろうっていう人、心してかかった方がいいよ。何しろモテるからさ(笑)ま、相手がいい男ばかりなら、うれしい限りだけど。

ちなみにこの宿、ワーホリ終わってバックパッカーとして旅をして、その後もう一度シドニーに行ったときにまた泊まってみたんだ。今度は男女共同だったんだけど、もうその頃には結構たくましくなってたから、全然オーケー!だったはずなのに、同室の男ども5人が全員、夜に女を一人ずつ連れ込んで来やがって、全く眠れ無いったらない。私は上段のベッドで寝てたんだけど、揺れるんだよぁ。でもね、さすがに、やめろ!っていう勇気は当時の私はまだ無くって、悶々と一晩を過ごしたんだよね。やれやれ。

 あ、それで宿を出ちゃった私は、シドニーの中心、ジョージストリートを目指して歩き、その後しばらく滞在することになる「シビックホテル」へ。

このシビックホテルは中華系と思われる人が経営していて、すごく便利なところにあるのに、ウィークリーだと確か75ドルで泊まるという安宿だった。キングスクロスの宿とはずいぶん違って、バックパッカーらしき人はあまりいなくて、代わりに住んでいるオーストラリア人が結構いてそれがすごく面白かった。日本のガイドブックにも載っていたから日本人もたくさんいたのが、しょっぱなからシドニー生活に怖じ気づき始めていた私には救いだった。

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写真を見てもらえれば分かると思うけど、ドミトリーと言われる部屋は洒落っ気も一切無く、というかどちらかというと薄暗くて汚く、だだっ広いワンフロアにひたすら数十コの二段ベッドが並ぶというものだった。ここに男女が関係なく滞在していた。

 私は結局1ヶ月あまりここで暮らした。ここで暮らす地元住民や日本人と一緒にマーケットに行ったり、ビーチに行ったり、バーに行ってビリヤードをしたり、向かいにあったマンダリンクラブというところで鳩の唐揚げを食べながら中国人の芸を観たりして、夜になるとドミトリーのベッドで横になって眠りについた。

こここでの暮らしは最高に楽しかったな。やっぱ旅は出会いでしょ!って、薄汚いキッチンでみんなで語り合ってたな。いい時代、青春だなぁ。ふふ。

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ブルーマウンテンにて! なんて、ワーホリ生活満喫したりしてさ。

 

長くなったけど、これが私の初めての海外。

でも、ここまでじゃ。まだバックパッカーじゃないじゃん、私。

ただのワーホリの人。あれ、いいのかな?

でももう長くなったから、ひとまずおしまい。

 今度はちゃんと、どうしてバックパッカーになったのか、を書きますね〜。

 

 

Japan Backpackers Link 2011年11月19日 12:39 AM
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